ばのブログ

フルゆとり世代の俺

そうめん食べたい

そうめん食べたい
そうめんです
そうめんですか
そうめんですよ
そうめんが食べたいんです
わかりましたそうめんです
わかりましたそうめんですか
いやそうめんです
だからそうめんが食べたいんです
だからそうめんが食べたいってことですか
そうめんが食べたいんです
だからそうめんです
だからそうめんが食べたいって言ってるんですよ
だからそうめんですよ
だからそうめんですか
そうめんが食べたいんじゃないんですか
そうめんが食べたいんですよ
だからそうめん出してるじゃないですか
怒ってるんですか
怒ってませんよ
怒らないでくださいよ
怒りそうではありましたよ
え怒ってるんですか
だから怒ってませんて
怒ってるじゃないですか
だから怒ってませんて
怒らないでくださいよ
あなたが怒らせてるんですよ
そうめんが食べたいだけなのに
だからそうめんですって
そうめんが食べたいんです
そうめん出してるじゃないですか
また怒った
もう食べないなら帰ってください
そうめん食べさせてくださいよ
だから食べてくださいよ
そうめんをですか
そうめんじゃないんですか
そうめんですよ
そうめんですよね
いただきます
食べるんかい

下敷き

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」


流行り病が世の中をかき乱し始めてから久しい。
自宅でおとなしくする時間が増えればその時間を何にあてるのか悩むこともある。仕事柄休みが増えたわけでもないのだけれど。かといって多少は生活も変わるもので、ほらマスクはしないといけなかったりとか、、、うん、あんまり思いつかないんだけど少なくともあまり外出は好まれないわけで、このむし暑くなってきた中でも律儀にマスクを着けていたりする。四季折々色々なことを思い出す中でもマスクを身につけながらの夏は過酷なものだと思うのだが、去年の夏がどうだったかってことは案外覚えていない。しんどいことの継続や更新よりは幾分かましな気もする。

記憶に結びつく出来事はそこらに転がっていてこの暑さも例外なくその一つだけれど、面白いのは「暑い」と「すごく暑い」で浮かんでくる思い出は変わるし、「暑い」+「」になることでその数は膨れ上がる。それが今日の下敷きに繋がったのは言うまでもない。

学生の夏は一際暑くて求めずとも次から次に行事に部活、それと(俺にとっては)少々の勉強が押し寄せてきて、流した汗を正確に量ったら摂取量を大幅に超過しているなんてフィクションも馬鹿にできないんじゃないかと思う。いや、うん、そりゃあり得ないんだけどさ。
平成生まれの学校に備え付けられたエアコンにかじりついて時計に併設された温度計を見ると30度を越えてるなんてこともあって、プラシーボ効果を期待するにしてもそこに現実を突きつける数字を置くのはどうかと思うわけで、窓を開けても地獄、閉めきっても地獄の状況下に次にすがるは自動ではなく手動、デジタルからアナログ、鉄器から石器、令和の学校ってエアコンついてんのか。知らんけど、比較対照をけなしたいわけじゃなくて涼しさを得るのに体温あげてどうすんだってことなんだよ。
そんな文句をだらだら垂れ流しながら自分の手札を確認すると、なかなかに綺麗な教科書とノートにくたくたの筆箱、格好から入ることが多い俺も勉学はその枠組みの外。なら何が使えるのかってそりゃ教科書しかないわけ。重なった紙の強度を信じて左右に振ってみるんだけど弱風を越えてほぼ凪。主人を涼ませる気なんて微塵もない一枚一枚はここぞとばかりに散らばっていく。確かに都合のいい時ばかり協力を要請するのが調子のいいことなのはわかってるんだけどさ、このままじゃ俺の汗で綺麗なあなたたちもぐちゃぐちゃになりますよってそれは脅しになるからやめておこう。そもそも綺麗なことが問題なわけでしっかり使ってやれなかった俺がわるいんだよね。うん。
あー暑い。移動教室で廊下に出れば歩く度に開け放たれた窓からの温風と恵まれた(俺の教室とは違い)教室からの冷風グラデーション。本格的に俺の体を壊しにきてる。次の教室は、、おいおい体育だってさ、これはあれだ終わりだ。終わりだ終わり。終わりの始まりってそれもう死んでないかとか、終わりの始まりは終わってから始まるのかとか、終わりが始まるのかとかそのどっちとも取れる気がするんだけど、あ、だめだ知恵熱、これが知恵熱ってやつか。これから更に体を動かすんですよね。考える知恵熱。じゃー動く熱ってなんだろう。体力熱、運動熱、知恵熱の上昇を確認。考えるのはやめよう。

幸運なことにお昼の学食戦争とは無縁の俺は教室で弁当を食べるわけだけど、学食争奪戦と同時に行われている学食周辺のテーブルを賭けたカースト戦争に破れたわけではないと言うことを前置きしたい。敗れる為には挑戦が必要になるがそもそも挑戦していない。べつにびびってないけどね。もう一度言う。べつにびびってない。
数人の友達が思い思いのお昼を堪能する中であることに気づく。それは今朝からの取っ掛かりの一つでありここで明確にするべきだと思った。みんな同じうちわ持ってねーか。なんで俺だけという疑問よりも先に出てきた感情は羨ましいの一言だった。話を聞くと登校中に学校の前で配っていたと言うのだ。こんなことレッドブルを配ってた(らしい)時もあったな。朝練で登校の時間帯がずれている俺には縁のない話だった。耐えられなかった。エアコンに裏切られ、教科書に裏切られ、友に裏切られた。学校を飛び出し駆けて駆けて風になりたかった。かつてのメロスはこうして風と見紛うほどのスピードを出したのだと錯覚した。机をひっくり返すほどのスピードで中身を物色する。何か、なにか固くて纏まったものはないのか。数学、現代文、なんかよくわからん社会系のやつ、英語、保険、マジでよくわからんやつ、クリアファイル、クリアファイルは薄すぎる。そして各種ノートに行きつき遂にその時が来た。ノートに挟まれていた下敷きがこれほどまでに美しいと思ったことはなかった。角を丸く削った安全な設計。かさばらずかといって薄すぎず、謙虚な中にも自分の役割をしっかりと果たす職人気質な姿勢に心打たれた。運命の出会いなんてものは母数が少ないからこそ胸打ち伝聞されるのであって、本当に大切なことは積み重ねていくことなのだと知った。下敷きは、いや彼はずっと傍にいてくれたのだ。どれだけ粗雑に扱おうと微笑みながら受け止めてくれていた。俺は気づくことができたんだ。正そう。これまでの自分を振り返りこれからに生かすんだ。夏はまだ長い。始まったばかりと言っていい。俺達もこれから少しずつ、それでも確かな絆を築いていくんだ。「ごめん」なんて野暮なことは言わない。「これからもよろしくな」心の中でそう俺は呟き、次の日うちわを持ってきた。





梅雨が明け今年も暑い暑い夏が始まる。
少しだけ大人になった俺の鞄には下敷きが一枚。
額の汗を拭いながら下敷きで扇ぐ。
「うちわは意外とかさばるんだよな~」


今年も夏が始まった。

俺の脳ミソどうなってんだ

歳を重ねて物忘れがひどくなったという話を聞く。歳を重ねてなくても物忘れがひどい俺は歳を重ねても変わらず物忘れがひどい。

今日の俺はいつもと違う。なぜなら持っていくべきものを用意しているからだ。左のポケットにはジムの会員証を既に入れてある。そうだ、バックにタオルも入れなければいけなかった。帰りは買い物をするだろうか。スマホは右のポケットに入れてあるしこのままバックを背負って家を出ても良さそうだ。
あ、待てよ会員証を忘れてるじゃないか。いつもこの棚の上に置いてあるはずなのだが…見当たらない。昨日履いたズボンのポケットだろうか、いや待てよ昨日はカードを持ち歩いていない。これは探すのに一苦労だ。今履いているズボンのポケットの中にはスマホと…そうか、既にカードは用意していたじゃないか。よし、やっと家を出れる。

玄関の扉を開けて外に出る。鍵をかけようとポケットをまさぐるとカギがない。再び玄関の扉を開けて中に入る。カードがあった棚にあるカギを手に取りやっと出発できそうだ。

ジムでのトレーニングも終わったのでプロテインを飲もう…プロテインがない。ジムで売っているのを飲んでもいいんだがそれは少しもったいないな。
"
"
"
みたいなことを無限に繰り返しているので文字に起こしてみたけど俺の脳ミソどうなってんだ。

そう、これはただの言い訳

二ヶ月程前から煙草を吸っていない。
俺は正直言って煙草が好きだ。今でもゲーム・漫画・映画・テレビ、その他様々な媒体で煙草を吸っている光景を目にする度に煙草が吸いたくなる。
中毒と言ってもいい。
そのはずなのに俺は煙草を吸わずにいる。中毒にも気分があるのか俺自身の気分なのかそこに答えを求める気はないが、事実、俺は煙草を二ヶ月吸っていない。健康だとか匂いだとか見てくれだとかの為に煙草を吸わなくなるのならこの伸びすぎた髪の毛や放置されたままの髭の説明がつかない。
吸わなくなったからといって変わったことは特にない。強いて言えば飯がうまいことや、暇潰しがなくなったことや、喫煙所での会話がなくなったことや、心を落ち着ける時間がなくなったことぐらいだろうか。大ダメージである。
ただここで俺が言いたいのは禁煙をしているわけではないということだ。禁煙をしたつもりも宣言したわけでもない。まぎれもない喫煙者の俺は中毒の気分か、はたまた俺の気分なのか“たまたま”吸っていないのである。期間は未定。吸うのも自由。それが二ヶ月続いた。それだけのこと。



俺は煙草を吸っていない。吸っていないのである。

意味ありげな朝

連日疲れてシャワーも浴びれてないのにぐっすり眠ることもできずに目が覚めた休日の午前四時。
こんな日は朝から風呂でも入ろうかとシャワーの用途でしか使われてない浴槽の掃除に向かった。
そういえば入浴剤を二種類も買ってバスタイムを充実したものにしようとしていた時期があったので、
それを使うのもいいだろうと探してみると一つはまだ新品のままだった。果たして過去の俺が充実したバスタイムを送れていたかどうかなんてことは一ミリも覚えていないが、今の俺の役には立ちそうだぞグッジョブなんて心の中で親指を立てながら風呂の掃除に取りかかるとこれまた意外と時間がかかる。
普段からシャワーしか浴びないのだから当然といえば当然なのだけれど、休日ということもあって綺麗に掃除してしまおうという本来の目的から外れた方向に進んでいった。
ここの汚れも落として、あーここも汚れてるわとかぶつぶつ言いながら汗を流す。ある程度のところで納得して風呂場から出てきたところで入浴剤を元の場所に戻して一息ついた。
よし、今日はシャワーにしよう。

形だけの熟成

記事を書こうと思っては手が止まる。
少しだけ溜まってる下書きの最初は一年前だった。興味本位で書き始めて、徐々に好きになって、それがいつの間にか書かなくなった。無理して書くよりはいいんだと思う。
前より頻度は多くないけどこうやってまた記事を書いてる。頻繁に更新してた始めの頃と同じなのは記事を書いている時期の自分は少し苦しいってこと。
苦しくなると文字に逃げたくなる。今思えば不安とか不満とかそういったものを吐き出す場所を探して逃げてきたところがここだったんだと思う。
だからまたここに逃げてきた。矛盾してるように聞こえるかもしれないけど元々溜め込む性格ではないと思う。ただ文字を綴る原動力の大半は負の感情でそれに頼っている部分が大きい。明るい記事を書こうとするとどうも上手くいかないことが多い。
なんでなんだろう。イメージしてイメージしてそれを何かに投影して膨らまそうとしても萎んでいくいっぽうで、登場する人物も物も全てに影が差す。あまり暗く見られることない自分は実はこんなにも暗いんだと認識する。別に暗いことが悪いとも思わない。でも、だとしたら今この表面を覆っている皮の存在に気味が悪くなる。
これは自分でこれも自分。そうやって納得するために表裏一体って言葉を調べてみた。
「相反するかに見える二つのものも元をたどれば一つである。」
「二つの物は切り離せない関係にある。」
この気持ち悪さはどうやったって切り離せないのかもしれない。
自分のことは嫌いじゃない。内から形成される表面。表面に覆われた邪悪。互いを糧に肥大を続ける両面。この気味の悪さはこれからも増していって自分では許容できなくなるのかな。その時自分を嫌いになるのかな。その時は張り詰めた体に針を刺そうと思う。それが積み重ねてきた自分への責任だと思うから。

1つ前の記事について

1つ前の記事を読み返してみたら非常にとりとめのない文章になっていることに気づきました。
そもそも自分を落ち着ける為に書いたものなのでそんなもんだろうというような感じです。
ただ、今の私を表しているようにも感じたので特に編集はせずそのまま置いておきます。

少しだけ私自身を振り返ってみると、私は子供の頃から死について考えている気がします。今でも昔と変わらずそこにある死を考え眠れなくなることがあります。
そんな絶対的な事柄が今身近にやってきて非常に動揺を隠せずにいるところです。
記事でも書いた通り自分を責める思考に陥っている私ですが、後半でも書いたようにそれは望まれていることではないように思います。
皆さんはどうか私のようにならないでください。
私もどうにか前を向けるよう日々を過ごそうと思います。

後悔とこれからと

家族が余命宣告されました。
どこかに逃げ込みたくて今文章を書いています。
文字にすれば少しは気持ちが落ち着くんじゃないかと思ってスマホを握っています。本当に情けない。
失ったり失いそうになったりした時に後悔は襲ってきて、今までの経験からそんなことわかっているのにまた同じことをしていました。今この瞬間の当たり前がこれからも当たり前であり続けることなんて絶対にないってことは知っていたはずなのに。
愚かな私を今だけはここに逃げ込ませてください。後悔を置かせてください。自分を責めることを許してください。

目を背け続けたのはまぎれもなく私です。
一番苦しいふりをして逃げたのは私です。
会話を振り返ると後悔ばかりです。
誰よりも近くにいれたのに逃げ続け被害者ぶってはまた逃げて今度はここに逃げてきて結局何もしていない。
なんで笑いかけられるんですか、なんで冗談を言えるんですか、なんで私の心配をするんですか。
一番苦しいのはあなたなのに。少し声を聞けるだけでいいとか無理しなくていいとかなんで私が気を使われているんですか。
私はこんなにクズなのに。どうしようもないのに。


これから先、思い出が溢れることが多くなるかもしれません。でもまだ終わっていない。こんなどうしようもない私の人生も続いてしまう。だったら今、残された時間の中で出来るだけのことをしようと今思いました。

失った人は言います。
あなたはこうはならないでください。
後悔しないでください。
今を目一杯楽しんでください。
そんな言葉の意味を私はやっと理解した気がします。
きっとその言葉の意味がわからなかったのはこれまでが幸福に満ちていたからなのかもしれません。

もし私のようにそんな人達の言葉の意味に気づいて自分を責めたくなる時がきたらその時はどうか自分を許してあげてほしい。前を向いてほしい。泣いてもいい悔しいのもわかります。でもどうか自分を責めないであげてほしい。
あなたの近しい人はきっと今のあなたを心から愛していて心配しています。だから下を向かないでちゃんと見てあげてほしい。笑いあえる話せる時間を大切にしてほしい。この止められない時間を無駄にしないことが大切なんだと思います。
あなたならきっとできます。
逃げ続けてきた私も頑張ろうと思います。
向き合おうと思います。
だから一緒に前を向きましょう。

今年

多分あと数時間で一年が終わるわけで
一年前の今日はなにやってたかなって。
パッと思い浮かぶことは特にないんだけど
それから数ヶ月後に起こるコロナは今も続いていて、
それでもなんとか私は生きていて
年越し蕎麦でも用意しようかななんて思ってる。
慣れっていうのは怖いもので
慣れっていうのは順応でもあって
一概に全てを否定も肯定もできはしないけど、
それでも蕎麦のことを考えれる程度に
今に順応したことを否定しようとは思えない。
多分今年が終わっても今年の出来事は終わらなくて
あと数時間で劇的に何かが変わるわけでもなくて、
年を跨げば全てをリセットできるような
都合のいい世界ではないから、
今日までを引きずって年を跨ぐわけなんだけど、
今年ばかりは変わらなかったことでさえ
自分を評価してあげてもいいのかなって
思うわけなんです。

あと数時間
変わらない日常に感謝を込めて。

大切なものは欲しいものより先に来るらしいよ

マスクの中で私じゃない誰かが鼻をすすった。電車に乗って揺れる車内のがたついた音を縫って聞こえたその音はマスクの中を探しても空っぽで、少し前のように視覚から得られる情報も少なかった。隠されたものを見つけるのが好きで隠したものは見られたくなかった。自分勝手でもそれが正しくて今は嘘ばかりだ。
自分を型どっているものはなんだろう。鏡に私を映してみればそこには誰かを象った私がいる。いつだって足りなくて憧れて近づいたあの人もまた迷子なのかなって。みんな違ってみんないいのにみんながみんな褒められるわけじゃない。嘘ばっかりのその言葉を鵜呑みにすれば非難の目を避けることはできなくて、私は何回目かの変身をした。見慣れた私じゃない姿。いつの間にか私が何かはわからなくなって、どこにいるかもわからない。そんな私が嫌になる。だから私はかつての私を探す旅に出る。それは過去を振り返りながら未来に進む道になる。もう嘘をつかなくていいことに安心した。
今までよりも困難な道が続くだろう。でも私は道ではなくその地平線を眺めた。他人からの評価に沿って歩く方が簡単なのかもしれない。それでも自分を好きになれなかった私が決めた初めての道は歪な形でも光を放っていた。目もくれずに終わらない道を進む。もう見つけられなくてもいいと思った。そこに至るまでの道がかけがえのない物になるんだとそう思った。