ばのブログ

フルゆとり世代の俺

誰かが言ってたことは必ず誰かが言ってると思う

綺麗な物を見ると涙が出るのは決して感動なんかじゃなくて、ましてや同情なんかでもない。
穢れているとか清んでいるとかどちらかに形容することはおこがましく感じるから中間よりやや下辺りに位置していることにしよう。
下から足を引っ張る手に質問をしてみると、お前はこっち側だろなんてことを言われるけど深追いはしないことにしている。だって聞かなくても勝手に喋り続けるもんだからどっちかというと息の根を止める方法を教えてほしいかな。
薄い膜一枚隔てるだけで爪先から髪の毛の一本まで別人に変えることはそんなに難しいことじゃない。わざと正体を現してみたり、小出しにして伸ばされた手を掴むのは誰だってやってるけれど、稀に下手くそな人を見つけると少し嫉妬して悲しくなる。あれは本来あるべき姿なんじゃないかって思わされる。本来の姿なんてのは自分で決めればいいし、あったとしても何かの戒めに立たされた象徴であったりするだけで、そうなりたい人は多いのかってことには触れないでいたりする。それが楽だもんね。
そこを目指させたあなたはそこを目指していなくて、そこを目指していたはずが目指さない理由を見つけてしまう。掴みたかったもののカスが手に残れば、あんなにすがって集めていたはずなのに泡立てた体の一部と一緒に水で流していく。洗っても、洗っても洗っても消えなかったはずなのに目に見える所にはもういなくて、どこかもわからないメモリーカードは勝手に物語を刻んでて、あの時あの場所からのロードは許されなくて、持ったはずのないペンで描かれた自分の筆跡はまぎれもなく自分の成長を表している。ペンを持ったこともないくせに持てなくなるなんてことは想像もできないけどいつか持てなくなるらしい。
わからないことだらけのこの世界をわからないままに進みながらわからないまま消えていく。わからないことがわかれば良くなることばかりじゃないけど、悪くなることを考えたところでわかることはあの時すがったカスと同じ程度の量でしかないから考えたって無駄なんだろうけど、それが生きるってことなんだって誰かが言ってた気がする。
笑えるのはさ、どんなに考えてもだいたいのことは誰かが言ってた気がするってこと。
今この瞬間も同じことをさ。