ばのブログ

フルゆとり世代の俺

重苦しい日常がまた少し重くなった気がした

なぜですか。そんな問いかけはもう届かない。
やらない後悔よりやる後悔がいい。選ぶなら後者かもしれない。選べるなら。
やるせなさが残るのはどうすることもできなかったから。遠いあなたも近いあなたの心の内も読めません。人の心なんて読めない方がいい。知らなくていいことなんてたくさんある。そう思います。
でもあの時だけはと思うのは都合がいいでしょうか。少しでもやれることがあったかもしれない。変えられたのかもしれない。結果が変わらずとも納得はできたのかもしれない。これは自己中心的でしょうか。
起きてしまったことを変えることは事象によりできるけれど変えられることを望んでいるとは限らない。それでも尚変えてしまいたいと願うことは粗暴に映るでしょうか。個ではなく全体を尊重するならば間違ってはいない。ただあの柵を越える覚悟は並大抵のことじゃない。
他人は言う。「そんなことで」と。
どんなことであったとしてもそれが大きな要因になりえることがある。私のそれはあなたのそれではなくて、あなたのそれは私のそれではない。
常識は難しい。当たり前であることを求められ、当たり前を探してみたけれど当たり前は不安定だった。所によって形を変えて所によって求められ、削って研いでくっつけて元の形がわからなくなった。
私はあなたを知りません。あなたも私を知らないでしょう。ただ一つわかることは半端ではない本物の覚悟があった。それでも惜しいと思うことを今だけはどうか許してください。
私はもう少し歩いてみます。