ばのブログ

フルゆとり世代の俺

何かを追って思考した。そしたら何かが顔を出す。

私の幸せは誰かの不幸になっている。誰かの幸せは私の不幸になっている。私が幸せになる為に知らないあなたを不幸にする。そう意識してからの幸せも不幸とは思えない。ただ幸せになっていいかを考える。
どこかの誰かを不幸にすることまで及ばない頭でも近くのあなたの不幸まで鈍感じゃない。不幸にしてもいいですか。そんな質問には返事さえ要らない。だから黙って不幸にする。そうしようと思った時に辛いのは自分なんだって気づいた。
悪意は方向を決めることで消化する。刃を覆う鞘を担っているのは私だ。傷付けることは簡単で、傷つけないのは難しい。刃が研がれていけば、鋭利になればなるほど私も強くならなければならない。大きな力に並ぶ大きな力を得て自分が自分に恐怖する。不安になる。使う方向を間違え傷つけることが怖い。それを望んだのは、その力を得るために行動したのは誰だ。そんなことを今更考え怖じ気づいてどうなる。低いところから見えなかったものが今になって見えてくる。必死になったこの道はもう道ではない。後悔しているのか。いやそうじゃない。なら進めというのか。そうだ。踏み出すしかないことはわかってる。この葛藤も何もかも無駄だとしても人間でありたい。ではそれ以外は人間か。まぎれもなく人間だ。違うこんなことが書きたいんじゃない考えたいんじゃない。感情が、司る脳が爆発しそうだ。自己を肯定して他を否定する。生き残るための本能という言い訳をいいことに思考を放棄する。多数が善になり少数が悪になる。多数が枝分かれ差が生まれ頭の見えないピラミッドは高くなる。抜け出せないんじゃない抜け出さない。
今日もまた誰かの血を啜る。無くならないそれをいつまでも痩けた頬に浴びて。