ばのブログ

フルゆとり世代の俺

寄り添う悪魔と正しい天使 あとがき

天使と悪魔っていう抽象的な存在が好きです。
抽象的であるのに具象的で、見えることはないのに姿を描いてはいつもどこかに存在している。

「寄り添う悪魔と正しい天使」は一人の僕(君)の一生です。彼の面白いところは最後の最後まで一度も悪魔の手を取らなかったことでしょう。
節目での選択の結果を詳しく描写していませんが、最後の結果を見ると、ことごとく天使の敷いた道を進んでいることがわかります。

二つの存在は相容れることのない対極に位置し、左右逆方向に真っ直ぐ進んでいます。丸い地球に留まっているならばどこかで交錯することもあったのだろうけど、二つが存在する世界はどこまでも広大で丸みを帯びません。天使が肯定すれば悪魔が否定するでしょうし、天使が否定すれば悪魔が肯定するでしょう。

苦労するのは人間です。人間はどちらにも転ぶことができる。選択肢がある。選べるということは自由でありながら同時に振り回されているように感じます。人が天使にも悪魔にも成りきれないのはここの違いのような気がします。確固たるものがない。
人が二人いて一人が相手を殴った場合、それを遠目に見ていたあなたはどちらが悪に見えますか。
天使は殴ったことを非難して、悪魔は嘲笑うでしょう。では、あなたは親を殺した人間と相対した場合、その手を止められますか。天使は制止して、悪魔は扇動するでしょう。それは今目の前にいる相手も同様です。手をかけざるを得なかった理由があったとしても、天使と悪魔は同じ反応をしているでしょう。

正しいことは善で、正しくないことは悪でしょうか。
正義は時に残酷で、不義は時に慈悲深い。正義を執行し続けた先にある悪魔の囁きは至上の香りを撒き散らすでしょう。それにあなたは耐えられますか。それならいっそ毒を含みませんか。死の直前まで熟成された猛毒を取り込まざるを得ない状況ではなく、悪魔の慈悲を退ける選択をしませんか。

何かを決定する時、そこには天使と悪魔がいる。
いつだってその存在は当事者でなく、先導者であり指導者であり、支配者である。
でも抗いたい。できるだけの決定を下したい。決断の裁量を限りなく上限に近づけたい。
人間の可能性は無限大でなくてもいい。選択につきまとう天使と悪魔を振り払わなくてもいい。
それでも、正しい正しくないの秤だけで量ることは選択の放棄に思えてしまう。この世界でわずかに存在する天使と悪魔に近い人間は不自由に見える。彼らの多くは不自由の概念がない。そこに選択はないから。
 
選択を放棄してはいけない。最後に猛毒を含んだ彼の二度目の人生が幸福であるなら、最後の慈悲は天使から授けられるはずだから。毒の味を知らない者が無知なまま毒に近づく。倫理を中心に添えて適度に毒を含んだものは致死量の毒を含まない。

正しいと善、正しくないと悪。
正しいことが正義、正しくないことが不義。
言葉の形に惑わされてはいけない。私達は人間で、どの位置にも立つことがある。その時の選択を言葉のまま受け入れることは選択の放棄であり、機械となんら変わらない。そこで悩み苦しみ葛藤し生きることでどんな高性能な機械よりも価値がある人間になる。
私は彼にそれを教えられたのかもしれません。